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アルタクセルクセスの王宮址遺跡

アルタクセルクセスの王宮址遺跡

EU-25/2004(東欧)

 EU新加盟国・ポーランド共和国  2004年5月12日

 ポーランドは面積32万平方キロ(日本の5分の4、日本から九州と四国を取ったくらいの大きさ)、人口3800万人と、今回のEU新規加盟国の中では面積・人口ともに最大の国である。2003年のイラク戦争では積極的にアメリカ支持に回り、またイラクに派兵してイラク中央部の占領を任されるなど、国際舞台での存在感をアピールしている。
 ポーランドはかつてヨーロッパ最大の面積を誇る国だったこともあるが、一方で地図の上からポーランド国家が消滅したこともあり、これほど栄枯盛衰の激しい国も珍しいかもしれない。西のドイツと東のロシアという大国に挟まれた故の運命だったし、今後もポーランドはその環境の中で生きていかねばならない。アメリカという覇権国に接近するのはむしろ当然の行動かもしれない。

 「ポーランド」という英語名(ポーランド語でポルスカ、ドイツ語でポーレン)は「平原の民」を表わす「ポラーニエ」に由来している。北はバルト海に面し、南の国境はズデーティ山脈やカルパチア山脈で画されているものの、東西国境は地形的障害のほとんどない平原である。
 このような地形ゆえに、先史時代から農耕文化が栄えている。新石器時代の帯紋土器文化、縄文土器文化、青銅器時代のラウジッツ文化などである。紀元前一千年紀には東方の遊牧騎馬民族スキタイ人の遺物も見つかっている。紀元前後にはゲルマン系のゴート族の居住地だったが、6世紀頃にはスラヴ系住民の住地となる。
 ポラーニエ族が周辺のスラヴ系諸部族を統一して国家の体裁を整え、966年にはピャスト家のミェシコ1世がキリスト教に改宗、さらに1000年には神聖ローマ帝国(ドイツ)皇帝オットー3世の後援でグニェズノに司教座が設けられた。その後ポーランドはいくつかの侯国に分裂、ドイツの干渉や王位をめぐる内紛が続いた。
 13世紀以降には三圃制農業の導入により生産力を伸ばして人口が増えたドイツ人による東方移民が活発化、ドイツ人によりポズナニ(ドイツ名ポーゼン)、ヴロツワフ(同ブレスラウ)、クラクフ(同クラカウ)などの都市が建設された。

 1320年、クラクフ侯ウワディスワフ1世はローマ教皇の権威を借りてポーランドを再び統一する。その息子カジミシェ3世はクラクフに中欧で二番目に古い大学(ヤギェウォ大学)を建設する(最古はプラハのカレル大学)。彼の治世中の1348~49年にヨーロッパでペストが大流行、あらぬ疑いを掛けられたユダヤ人の多くが西ヨーロッパを追われてポーランドに移住、ポーランドはヨーロッパでもっともユダヤ人の多い地域となった。
 カジミシェ3世には嫡子が無く、甥でハンガリー王のルドヴィーク(フランス・アンジュー家出身のルイ)がポーランド王を兼任、ルドヴィークが1382年に死ぬとその娘ヤドヴィガが女王となった。当時隣国のリトアニア大公国はウクライナにまで勢力を拡大していたが、ヤドヴィガ(12歳)はハプスブルク家との婚約を破棄して1386年にリトアニア大公ヨガイラ(38歳)と結婚、ヨガイラがウワディスワフ2世としてポーランド王位に即き、ここにポーランドとリトアニア両国に君臨するヤギェウォ朝が始まる。
 ポーランド・リトアニアはバルト海沿岸を支配するドイツ騎士団に攻勢をかけ、1466年にはバルト海沿岸地域を支配下に収めた。ポーランド・リトアニアの版図はバルト海から黒海に及ぶ広大なものとなり、ヨーロッパ最大となった。またヤギェウォ家はチェコ(1471年)やハンガリー(1440・1490年)の王位にも一時推戴され、南のオスマン(トルコ)帝国、オーストリア、さらにロシアを向こうにまわして覇を唱えた。
 ポーランドはグダンスク(ドイツ名ダンツィヒ)から国内で生産される木材やライ麦を積み出して西欧に輸出(ドイツやユダヤ商人が活躍)、「ヨーロッパの穀倉」と呼ばれるほどに繁栄した。この繁栄の中、トルニ出身の天文学者ニコラウス・コペルニクスが1507年に地動説を唱えている。一方で貴族による農民のグーツヘアシャフト(隷農化)が進み、経済システムの近代化を阻むことになった。
 ジグムント2世はポーランド貴族とリトアニア貴族の融和を目指して1569年にルブリン連合を成立させ、リトアニアは事実上ポーランドの一部となる。このとき国王・大貴族(マグナート)・騎士階級(シュラフタ)からなる国会(セイム)の制度が定められた。ジグムントは1572年に死去してヤギェウォ朝は断絶、国王はセイムによる選挙で選ばれることになったが、これは国王の権威低下と貴族の専横を許すこととなった。

 1587年に国王に選ばれたジグムント3世は宗教改革に際してカトリック擁護の立場をとりプロテスタントを迫害、このためポーランドは強固なカトリック国となる(1979年にはクラクフ大司教カロル・ヴォイティワがヨハネ・パウロ二世としてローマ教皇になった)。1596年にはワルシャワに遷都して国王専制を目指した。
 ジグムントは一時バルト海対岸のスウェーデンの王位も兼ねたが、プロテスタントの多いスウェーデンで彼の政策は反感を買い、国王の座を追われた(1604年)。スウェーデンとはやがてバルト海の制海権を巡って戦争となる。スウェーデンは大胆な軍制改革を行って軍隊を近代化し、ポーランドに攻勢をかけた。特に1655年にはプロイセン(ドイツ)と連携したスウェーデン軍は一時ポーランドのほぼ全土を蹂躙した。
 このような危機にあって、王権はシュラフタを始めとする貴族に制限され、内政は混乱を極めた。1697年にはザクセン(ドイツ東部)王アウグスト2世がポーランド王位を兼ね、ロシアと結んで北方戦争(1700~21年)を戦うが、またもスウェーデンに国土を蹂躙され、この戦争はバルト海への出口を得たロシアの勢力を拡大させただけだった。
 1764年にポーランド王に選ばれたポニャトフスキ伯爵家出身のスタニスワフ2世は、ロシアのポーランドへの容喙を象徴するような人物である。彼は元々ロシアの女帝エカテリーナ2世の愛人で、ロシアの圧力によりポーランド国王に選出された。ロシアとオーストリアの戦争回避の目的で、プロイセンを加えた3国により1772年に第一次ポーランド分割が行われる。
 1791年、スタニスワフは民主的な憲法を発布して貴族の特権を制限しようとしたが、反発した貴族たちとの対立で混乱する。ロシアはこれに介入し「秩序回復」を名目に1793年に第二次ポーランド分割が行われた。これに反発したタデウシ・コシューシコらは1794年に叛乱を起こすがプロイセンとロシアの連合軍に鎮圧され、翌年第三次ポーランド分割が行われスタニスワフは退位、ポーランド国家は消滅した。

 1807年にフランス皇帝ナポレオンによりワルシャワ大公国が復活したが、ナポレオンの没落と共にわずか8年で消滅、ロシアに併合された。1830年11月にはフランス7月革命やベルギー独立に刺激され、ポーランドでもロシアに対する叛乱が起き、国民政府は独立を宣言、しかし翌年ロシア軍はワルシャワを陥落させこの叛乱を鎮圧した。パリに向かう途上でその報を聞いた作曲家のフレデリック・ショパン(父親はフランス人)が、激情に駆られて「革命」などを作曲したことはよく知られている。
 1863年1月、イタリア統一やロシア皇帝ニコライ1世の死、ロシアがクリミア戦争で英仏に敗北したことなどに刺激され、再びポーランドで叛乱が起きる。国民政府の樹立が宣言されるが、農民層の支持を得られずに足並みが乱れ、かつ西欧列強も介入に消極的だったため、翌年プロイセンの援助を得たロシアにより叛乱は鎮圧された。ロシアはポーランド語の公用を禁止し、ポーランド人公務員1万人を追放、徹底したロシア化を図った。ポーランド人の民族運動は地下や海外(パリ)で続けられた。ノーベル物理学・化学賞を受賞したキュリー夫人(マリア・スクウォドフスカ)もその頃の人である。
 1914年に第1次世界大戦が始まると、ポーランド人の協力を得て戦争を有利に運ぶため、ロシアとドイツ双方は独立を約束した。ドイツ軍占領下の1916年に傀儡ポーランドの建国が、ドイツの敗戦で戦争が終結した1918年11月にはポーランド共和国の建国が宣言され、連合国に承認された。
 ロシア革命(1917年)で誕生したソヴィエト連邦とは1920年にベラルーシを巡って戦争となり、フランスの援助もあって翌年の講和ではカーゾン線(連合国が定めたポーランド東方国境)よりも250km東方にソ連・ポーランド国境が画定され、ポーランドは中欧の大国として復活した。

 復活したポーランドだが、ユダヤ人、ドイツ人、ウクライナ人、ベラルーシ人などの少数民族を多く抱え、内政は安定しなかった。1925年にはドイツ系大土地所有者の土地を没収する農地改革が行われたが、翌年には軍部によるクーデタで軍事政権が誕生した(~1935年)。
 一方隣国ドイツではナチス党が政権を握り、オーストリア併合・チェコスロヴァキア解体とその拡張政策を進めていた。1938年にドイツは飛び地となっている東プロイセンとドイツ本国の間にある「ポーランド回廊」の割譲を要求するがポーランドは拒否、緊張が高まった。
 1939年9月1日、グダンスクに侵入したドイツ軍艦が砲撃を開始、ドイツ軍はポーランド侵攻を開始した。二日後、ポーランドを支援するイギリスとフランスがドイツに宣戦布告し第二次世界大戦が始まるが、ドイツ軍の装甲部隊と航空機による電撃戦の前にポーランド軍は敵では無かった。ドイツと密約していたソ連もポーランドに侵攻、一月足らずでポーランドはドイツとソ連により分割されてしまった。
 ドイツ占領下のポーランドではポーランド国民の1割を占めていたユダヤ人がオシフィエンチム(アウシュヴィッツ)などに建設された絶滅収容所に送られ、またポーランド知識人に対する組織的虐殺も行われた。一方ソ連は降伏したポーランド軍将校4000人をカチンの森で虐殺している。
 1944年8月、ソ連軍はドイツ軍占領下のワルシャワに迫り、ワルシャワ市民はこれに呼応して蜂起する。ところがポーランド人による自主的な解放を好まなかったソ連は進撃を停止、ドイツ軍は市民軍に対して反撃に転じ、市民20万人が死亡、ワルシャワは廃墟と化した。1945年、ポーランド全土はソ連軍によってドイツから解放された。
 第二次世界大戦でのポーランド人の死者は600万人、これはポーランド人口の実に6人に1人にあたる。

 ソ連により解放されたポーランドはソ連の衛星国とされた。ポーランド東部3分の1がソ連に併合され、代わりにポーランドはドイツ領のうちポメラニアとシュレジアを与えられ、国全体が100kmほど西に移動する格好になった。ドイツ人320万人が難民化してポーランドを追われ、ポーランド人150万人が東部から移住した。
 ソ連の支持を得たポーランド共産党(統一労働者党)は1947年に選挙操作を行って政権の座につき一党独裁を行い、また教会に対する弾圧を行った。しかし国民の間には自由を求める反骨精神が伏流していた。1956年、1970年と大規模な暴動が発生し、その都度共産党指導部は交替を余儀なくされた。
 1980年、グダンスクの造船所で結成された自主管理労働組合「連帯」は950万人の組合員を獲得、ポーランド全土にストライキが拡大するが、1981年に首相になったヴォイジエフ・ヤルゼルスキ将軍は戒厳令を敷き、「連帯」を非合法化した。逮捕された「連帯」指導者レフ・ワレサは1983年にノーベル平和賞を受賞している。
 1989年、ソ連のペレストロイカ(改革)に呼応してポーランドでも民主化運動が活発化、4月には政権と反体制団体の間で「円卓会議」が開かれ、6月には自由選挙が行われて「連帯」が圧勝、1990年にはワレサが大統領に選出された。
 1990年代には市場経済化が図られ一定の成果を挙げたが、一方で失業が増えて年金生活者の生活が脅かされ、その反動で1995年には旧共産党系のアレクサンデル・クワシニエフスキが現職のワレサを破って大統領に選出されている。一人あたりGDPは4738ドル(2001年)、失業率は18%にも及び、大きな問題となっている。外交では1999年にNATO加盟、2004年にEU加盟を果たした。


EU新加盟国・リトアニア共和国 2004年05月13日(木)
 
 リトアニア共和国(Lietuvos Respublika、ドイツ語ではリタウエン)は、南でポーランドとロシアの飛び地であるカリーニングラード(旧ドイツ領東プロイセン)、東でべラルーシ、北でラトヴィアと接している。面積は6.5万平方キロ(北海道を一回り小さくしたくらい)、人口は350万人(静岡県と同じくらい)である。首都ヴィリニュス(人口58万人)はヨーロッパ大陸のちょうど真中になるという。
 その地形は平坦で、せいぜい低い丘陵があるくらいで国内最高地点の標高が293mしかないのだが、大小4000もの沼があり湿地帯が多く、また森も多い。バルト海に面してはいるが、クライペイダ(ドイツ名メーメル)以外にこれといった港はない。

 このような地形のため、リトアニアは先史時代以来、隣接地域と隔絶した歴史を歩んできた。リトアニアとラトヴィアはインド・ヨーロッパ語族でもバルト語派という独自のグループなのだが、ポーランドやロシアなど周辺地域が6世紀以降スラヴ人の移住で「スラヴ化」されたのに対し、バルト語派には古格な原ヨーロッパ語の言語学的特徴がそのまま残されたという。キリスト教化したのもヨーロッパでもっとも遅く(14世紀)、独自の民俗が残っている。
 リトアニアの名産の1つに、リトアニアの海岸に打ち上げられる琥珀がある。太古の樹木の樹液が化石化したこの茶色い物質は古代には宝石として珍重され、特にギリシアやローマといった地中海地域の古代文明で愛された。ポーランドやチェコ、スロヴェニアなどを通って琥珀は地中海に運ばれ、ローマ時代にリトアニアは「琥珀海岸」として知られていた。
 リトアニア南部を流れるネマン川(ドイツ名メーメル川)は河川交通に利用出来るので、9世紀以降にはスウェーデン系ヴァイキングが川を遡行して来たりもしたが、概ねリトアニア人たちは森と湿地帯に守られて平穏な暮らしをしていたのだろう。「リトアニア」という名前が初出するのは1009年の文献だそうだ。

 13世紀に入ると、リトアニア人は歴史のうねりに巻きこまれるようになる。この時代はハンザ同盟が設立されバルト海交易が活発化、また三圃制農業の導入で人口が増えたドイツ人の東方植民が活発化していたが、ドイツ騎士団(騎士修道会)はプロイセン地方のダンツィヒ(現グダンスク)やリガ(ラトヴィア、1201年建設)といった港町を拠点にバルト海沿岸の「開拓」に乗り出す。キリスト教徒の彼らにとって、リトアニア人は異教の野蛮人であり、彼らの行為は「十字軍」であった。
 ドイツ騎士団の攻撃(略奪)に対し、リトアニア人は結束を余儀なくされた。1236年にリトアニア人はドイツ騎士団の攻撃を撃退している。湿地帯では重装備のドイツ騎士よりも軽装のリトアニア戦士のほうが有利だったのである。1253年、ミンダウガスはリトアニア大公として即位した。1316年に即位したミンダウガスの曾孫ゲディミナスはドイツ人に倣ってリトアニアに城や都市を建設した。
 ゲディミナスは南方への進出も行った。当時ベラルーシやウクライナは、1240年にキエフ公国を滅ぼしたモンゴル人のジュチ・ウルス(いわゆるキプチャク・カン国)の支配下にあった。ゲディミナスの子アルギルダスは1362年にモンゴル(ロシアの呼称ではタタール)軍を撃破、ウクライナをも支配下に収めた。1370年には矛先を転じ宿敵のドイツ騎士団領に侵攻したが撃退されている。
 キリスト教徒ではないリトアニア人の支配に、ウクライナ人(ギリシャ正教)などは抵抗感があった。一方隣国ポーランドはキリスト教国だった。リトアニアは当初ポーランドと争っていたが、ポーランド王家で1382年に男系が絶えたのを奇貨として、1386年にアルギルダスの子ヤガイラはポーランド女王ヤドヴィガと結婚、同時にキリスト教(カトリック)に改宗した。ヤガイラはウワディスワフ2世としてポーランド王を兼任、ヤギェウォ朝を開く。これ以降リトアニアはポーランドの強い文化的影響を受ける。

 リトアニアはポーランドとは連合したが一応独自の地位を保ち、ヤガイラは甥のヴィトルトにリトアニア大公(のち王)の地位を譲った。リトアニアは拡大を続け、東はモスクワの手前、南は黒海にまで領土を拡大した。一方後顧の憂いの無くなったポーランドは1410年にタンネンベルクの戦いでドイツ騎士団を破り、1466年にはプロイセンの支配権を確立している。リトアニア・ポーランドの版図はバルト海から黒海までに及び、ヨーロッパ最大国にのし上がった。
 大国となったリトアニアだが、その貴族・領民にはギリシャ正教徒のスラヴ人が多く、カトリックのリトアニア支配に対する反感があった。この感情を利用したのがモスクワ大公国で、滅亡したビザンツ帝国の皇女と結婚したイワン3世はギリシャ正教徒に自らのロシア支配の正当性を主張、モンゴル支配を脱して勢力を拡大した。
 一方バルカン半島からはオスマン(トルコ)帝国が北上、1497年にはリトアニア・ポーランド軍をモルドヴァで破っている。ロシア、オスマン帝国、そしてスウェーデンにも脅かされたリトアニアは1569年にポーランドとルブリン連合を締結、表向きはポーランドとリトアニア融和のための連合だったが、事実上リトアニアは自主性を失いポーランドの一部となった。
 そのポーランドも1572年にヤギェウォ朝が断絶して選挙王制となり、貴族の専横で内政が混乱、スウェーデンとロシア、更にドイツのブランデンブルク侯国(のちプロイセン王国)の攻勢を受ける。ポーランドはその領土を次第に縮小し、ついに1795年の第三次ポーランド分割でポーランドは消滅、リトアニアはロシアの支配を受けることになった。
 ポーランドでの対ロシア反乱(1831年、1863年)に呼応してリトアニアでも反乱が起きたが、いずれも失敗した。

 第1次世界大戦中の1915年、ロシアに侵攻したドイツ軍はリトアニアを占領、1917年にドイツの傀儡ではあるがリトアニア国家の樹立が宣言される。1918年11月にドイツで革命が起こるとリトアニアは独立を宣言、戦後の混乱でドイツやポーランドの侵攻を受けるが、戦勝国である連合国はリトアニア国家を承認した。ロシア革命(1917年)で誕生したソヴィエト連邦も1920年にリトアニアを承認した。
 ヴィリニュスはポーランドに占拠されていたので、首都はカウナスに置かれた。1922年、ポーランド人大地主の土地を没収する土地改革が行われ、ポーランドとの関係は緊張したままだった。1926年にはポーランドでの軍事政権誕生に対応してリトアニアでも軍部のクーデタが起こり、一党独裁が行われた。
 1939年3月、ナチス・ドイツの領土割譲要求に屈してクライペイダをドイツに割譲する。同年8月23日、ドイツはソ連と独ソ不可侵条約を締結したが、その秘密条項でバルト三国はソ連の影響下に置かれることが決められた(この日は「黒いリボンの日」として記念日に定められている)。同条約に従いドイツとソ連はポーランドを分割、ソ連はバルト三国に対して「協力条約」の締結を強要し、ソ連軍が進駐した。
 ドイツ占領下のポーランドからは大量のユダヤ人がリトアニアに逃れた。1939年11月に開設されたばかりのカウナス日本領事館では杉原千畝副領事が本省の訓令に背いてユダヤ人6000人に日本通過査証を発給した。後年(1991年)リトアニア政府はユダヤ人を救った杉原の功績を称え、首都ヴィリニュスで「スギハラ通り」を命名している。
 翌1940年、ソ連のリトアニア傀儡政権は選挙操作によってソ連加入を決定、8月にリトアニアはソヴィエト連邦の一共和国となった。1941年6月、リトアニア人のシベリアへの大量流刑が始まる。同月にはドイツがソ連に侵攻、リトアニアはドイツに占領されるが、1944年まで続いたその軍政下ではユダヤ人を始め多くの人が犠牲になった。
 終戦(1945年)後にはソ連による農業の集団化、リトアニア人のシベリアへの強制移住などが行われたが、1953年の独裁者スターリンの死と共に多くは故国に戻った。

 経済・軍事的に行き詰まったソ連のゴルバチョフ政権がペレストロイカ(改革)を行う中、1988年にリトアニアでは「サユディス(運動)」が結成され、独立運動を展開した。1990年にはリトアニア最高議会選挙でサユディスが圧勝、ヴィータウタス・ランズベルギス議長は3月にソ連からの一方的独立宣言を行った。これに対してソ連は経済制裁で圧力をかけ、1991年1月にはヴィリニュスでデモ参加者14名がソ連内務省特殊部隊に殺害される「血の日曜日」事件が起きる。この事件でリトアニアは国際世論を味方につけ、同年8月のソ連共産党保守派によるクーデタ失敗により各国の国家承認を取り付け、独立を達成した。
 他のバルト諸国と異なりリトアニアにはロシア系住民が8%程度しかおらず、ロシア人にも国籍が与えられた。経済的には急速にロシアから離れる政策をとったため混乱、対露関係も悪化した。1996年には銀行危機の責任を問われシュレゼヴィチュス首相(労働党)が不信任決議される事態も起きた。
 1998年にはアメリカ国籍を持つヴァルダス・アダムクス(第二次世界大戦中に対ソ闘争に参加し、ドイツ経由でアメリカに亡命)が大統領に選出され注目を集めたが、2003年の大統領選挙ではローランダス・パクサス前首相(中道右派)に敗れた。そのパクサス大統領はロシアの国際犯罪組織から資金供与を受けた疑いで今年4月に弾劾され罷免、大統領不在のままEU加盟を迎えた。
 リトアニアの一人あたりGDPは4002ドル(2002年)、失業率は11%である。以前から最大貿易相手国はロシアであったが、近年ドイツやイギリスとの貿易を拡大、特にイギリスは最大輸出相手国となっている。資源に乏しく、主な産業は農業・林業・繊維などである。

 うかつにも僕は東欧考古学の権威マリヤ・ギンブタス(1921~1994年)がリトアニア人だということを知らなかった。ドイツ経由でアメリカに渡った彼女は、主に南東ヨーロッパ新石器時代の偶像を研究して「古ヨーロッパの神々」を著し、ヨーロッパの基層文化として母権社会である「古ヨーロッパ」の存在を主張した。
 古格なバルト語を母語とし、もっともキリスト教化の遅かったリトアニアに出自をもつ彼女ならではの発想だったのかもしれない。


 EU新加盟国・ラトヴィア共和国 2004年05月16日(日)

 バルト三国の中央に位置するラトヴィア共和国(ドイツ語名はレットラント)は人口231万、面積6万4千平方キロ(日本の約6分の1)である。南の隣国リトアニア同様、国土は平原かなだらかな丘陵地帯が多く、また湿地や森林が多い。ただリトアニアとの大きな違いは、リーガ湾の奥にある首都のリーガ(リガ、人口73万人)、リエパヤ(旧名リバウ)、ヴェンツピルスというバルト海に面した良港があることだろうか。また東にロシア本土と国境を接している。
 スロヴァキアもそうだったが、「ラトヴィア」という国家が成立するのは実に20世紀に入ってからである。それ以前にはリーフラント(英語ではリヴォニア、現在のラトヴィア北部)、クーアラント(同南部)、ラトガレ(東部)などといった地域名はあっても、ラトヴィアというまとまりは無かった。非常に若い国家といえる。
 リトアニア語と同じく、ラトヴィア語もインド・ヨーロッパ(印欧)語族の中のバルト語派というグループに属する。バルト語派は古格な古ヨーロッパ語の言語学的特徴を残す、とリトアニアの項で書いたが、リトアニア語に比べてラトヴィア語はその経験した歴史の違いからかなりの変化を遂げているという。なお北部リヴォニア地方には印欧語族に属さないフィン・ウゴル語族(フィンランド語などのグループ)のリーヴ人が居る。これらの民族は紀元前から既にこの地に暮らし、ゲルマン人やスラヴ人などの民族移動に巻きこまれることも無かったのであろう。

 バルト海沿岸にあるグロビナという遺跡では6世紀頃にスカンディナヴィア系住民と現地のバルト系民族が共棲していた形跡がある。ヴァイキングの祖先たちは既にバルト海に乗り出していたのである。さらに9世紀には、ラトヴィア国土の中央を流れるダウガ川(ドイツ語名デューナ川)を遡航してスウェーデン系ヴァイキングははるか南方にあるという偉大な都市ミクリガルズ(コンスタンチノープル、現イスタンブル)を目指した。武装商人であるヴァイキングの活躍によってバルト海をめぐる交易が発達したが、森や湿地の民であるラトヴィア人は沈黙している。
 12世紀に入ると、三圃制農業の導入で生産力を伸ばしたドイツ人の東方移民と開拓、そしてバルト海交易が活発化した。彼らは進出したリヴォニアで現地のラトヴィア人などと接触したが、当時は十字軍の最盛期という時代だった。リヴォニア司教だったブレーメン(ドイツ)出身のアルベルト・フォン・アッペルデルンは1201年にリーガ市を建設、また帯剣兄弟団を設立してバルト海沿岸地域への「十字軍」を始め、ラトヴィア人にキリスト教への改宗を迫り、改宗を拒む者には攻撃を加えた。
 1236年に帯剣兄弟団はリトアニア人に撃退され、翌年ドイツ騎士団に吸収されるが、ラトヴィアは既にドイツ人の支配下に入っていた。良港に恵まれたラトヴィアがドイツ人にとって進出に便利だったのに対し、リトアニアは海との連絡が取りにかったのがこの差となったのだろう。こうしてラトヴィアはマリエンブルク(現ポーランド)に本拠をおくドイツ騎士団に300年にわたって支配されることになった。ドイツ人はラトヴィアに都市を建設し、14世紀末にはドイツ農民の入植も活発に行われた。
 リーガ市などはハンザ同盟に参加してドイツのバルト海交易網に組み込まれ、ラトヴィアからは主にバターなどの畜産品が輸出された(畜産は今もラトヴィアの主要産業である)。リトアニアが独自の国家を持ちポーランドと連合して東欧の大国に成長したのに対し、ラトヴィアはドイツの強い文化的影響を受けることになった。

 ドイツ騎士団はリトアニア・ポーランドの攻勢を受け15世紀以降弱体化していった。さらにラトヴィアの東方ではロシアが興起し、1502年にはロシアの侵攻を受けた。ドイツ騎士団はロシアの攻撃から自らを守るために宿敵ポーランドの宗主権を認めざるを得なかった。
 1558年、デンマーク王がラトヴィア内に領地を購入したのをきっかけに、バルト海への出口を目指すロシアのイワン4世(雷帝)はラトヴィアに侵攻を開始、スウェーデンやポーランドも介入して1582年まで戦争は続いた。ラトヴィア人こそいい面の皮だったろう。この戦争のさなかドイツ騎士団は解体し、ラトヴィアはポーランド領になった。
 イワン4世の死後ロシアは内乱状態に陥ったが、そのさなかの1609年にロシア貴族ワシリー・シュイスキーは、スウェーデンのリヴォニア支配権を認める見返りとしてスウェーデンから援軍を得た。スウェーデンはこれを根拠としてリヴォニアの支配権を主張、1621年には大胆な軍制改革を行ったスウェーデン王グスタフ2世アドルフによってリヴォニアは征服された。1629年のアルトマルク条約によってリヴォニアはスウェーデン領であることが確認され、スウェーデンのバルト海における覇権が確立した。
 16世紀のキリスト教宗教改革の動きは既に1539年にラトヴィアに及んでいたが、プロテスタント(新教)国であるスウェーデンの支配下に入ったことでラトヴィアにおけるプロテスタント(ルター派)の優勢が確立された。現在もラトヴィア国民の多くはプロテスタントである。
 しかしスウェーデンの覇権は長く続かず、1700~1721年の北方戦争でロシアに敗れ、リヴォニアはロシアに割譲された。さらに1795年の第三次ポーランド分割で南部クーアラントもロシア領に編入され、ラトヴィアはロシア帝国の支配を受けることになった。
 ラトヴィア領内にはロシア人が多く移住し、ロシアにとって西側への窓口であったリーガ市内には19世紀末にアールヌーヴォー調の建物が多く建てられた。「戦艦ポチョムキン」「イワン雷帝」などの作品で知られる映画監督セルゲイ・エイゼンシュテイン(1898年~1948年)は、建築家だったユダヤ人の父ミハイルとロシア人の母の間に、その時代のリーガに生を受けている。

 第1次世界大戦中の1917年11月、ロシア10月革命が発生、ラトヴィアは翌年ボルシェヴィキ・ソ連政権からの独立を宣言する。ボルシェヴィキ軍の反攻でリーガが奪われたりしたが、ドイツやポーランドの支援で国土を回復した。ソ連との戦争状態は1920年にソ連がラトヴィアの独立を認めるまで続いた。
 独裁政権樹立の流れがヨーロッパに広がる中、独立運動を率いたカールリス・ウルマニスは首相当時の1934年にクーデタを起こして大統領に就任、独裁体制を敷いた。
 第二次世界大戦中の1939年、独ソ不可侵条約の秘密条項にしたがい、ソ連はバルト三国と「協力条約」を締結、ソ連軍が進駐する。形式的な選挙と外交交渉の結果、1940年8月3日にリトアニア、ラトヴィア、エストニアは同日にソ連に加盟し、ソ連の14・15・16番目の社会主義共和国となった。1941年6月にはドイツ軍がソ連に侵攻し、ラトヴィアは1944年までドイツ軍の占領下に置かれた。
 ソ連のスターリン政権下(~1953年)では多くのラトヴィア人がシベリアに強制移住させられている。1939年にラトヴィア国営電気工場(VEF)で開発された超小型カメラ「ミノックス」の開発スタッフはソ連支配を嫌って戦争直後の混乱期にドイツに亡命し、マールブルクから程近いギーセンで生産を続けた(ミノックスは冷戦中はスパイ用カメラとして愛用された)。そういえば、トム・クランシーの軍事小説「レッド・オクトーバーを追え!」に登場するラミウス艦長(映画版ではショーン・コネリーが演じた)もラトヴィア人という設定でした。
 1981年にラトヴィア人作曲家ライモンズ・パウルス(のちラトヴィア文化大臣)が作曲した「マーラが与えた人生」は、翌年ソ連で「百万本のバラ」というタイトルで大ヒット、日本でも加藤登紀子の歌で親しまれている。

 冷戦終結をもたらしたソ連の「ペレストロイカ(改革)」政策のさなか、1990年3月のラトヴィア共和国最高会議選挙では独立推進派の「国民戦線」が勝利をおさめ、5月にはソ連からの独立回復を宣言した。ソ連の圧力に対抗してバルト三国は「人間の鎖」などの平和的抗議行動で国際世論を味方につけ、翌年8月のソ連共産党保守派によるクーデタ騒ぎの際に共和国の地位に関する基本法を採択、同年9月ソ連国家評議会はバルト三国の独立を承認、ラトヴィアは独立国としての地位を取り戻した。
 1993年にはカールリス・ウルマニス元大統領(流刑先のシベリアで客死)の親類であるグンティス・ウルマニスが大統領に選出され、1999年以降は女性でカナダ国籍を持っていたヴァイラ・ヴィーチェ・フレイベルガが大統領の任にある。
 独立を果たしたラトヴィアの最大の懸案は隣国ロシアとの関係である。特に人口の三割を占めるロシア系住民の扱いが懸案となっており(ラトヴィア系は人口の六割程度に過ぎない)、ラトヴィア政府はロシア系住民に対してラトヴィア国籍取得に際してのラトヴィア語試験と年齢制限を設けているが、ロシアはこれを「人権侵害」と非難している。今年5月1日のEU加盟の際も、首都リーガでロシア本国との分断を嫌うロシア系住民による反対デモが行われた。
 ロシアには天然ガスなどのエネルギー供給を100%依存しており、この巨大な隣国との関係調整はEU加盟を果たした今後もラトヴィア外交の最大要素となることは間違いない。リトアニア・エストニアという他のバルト諸国とは密接な協力関係にある。
 経済面ではロシア一辺倒だった貿易を多角化、特にドイツとの関係拡大に努めており、最大貿易相手国となっている。主な産業は農業や軍需産業である。一人あたりGNPは3597ドル(2001年)、失業率は7%程度で、2001年の経済成長率は7.5%とEU内でもトップクラスの経済成長を続けている。また国内の良港を利用してロシアなどとの貿易仲介も盛んである。


 EU新加盟国・エストニア共和国 2004年05月17日(月)

 エストニア共和国は面積4万5千平方キロ(九州と沖縄を合わせたくらい)、人口143万人(岩手県とほぼ同じ)という比較的小さな国である。いわゆるバルト三国の最北端で(南隣りはラトヴィア)、地図では見ようによっては巨大なフィンランド湾とリガ湾に挟まれてバルト海に突き出しているように見える。フィンランド湾の対岸はフィンランドで、その湾の最奥にロシアの古都サンクト・ぺテルブルクがある。ロシアとは200kmあまりの国境で接しているが、両国の間には南北100kmに及ぶペイプス湖という細長い湖がある。
 バルト海ではサーレマー島、ヒューマー島を始めとして1500もの島がエストニアに属している。国土の多くは他のバルト三国と同じく平坦で森が多い。

 バルト三国のうち他の2国(リトアニア・ラトヴィア)では国民の多くがインド・ヨーロッパ(印欧)語族に属するバルト系言語を話すのだが、エストニア人だけは非印欧語族のフィン・ウゴル語族に属する。日本語と同じように助詞を使う「膠着語」の特徴を持ち、その言語はフィンランド語と非常に近い。むしろフィンランド人とエストニア人は、ヨーロッパ北部からウラル山脈にかけて分布した共通の祖先を持ち、歩んだ歴史の違いが両者を分けたというべきなのだろう。
 エストニア人に関する最初の言及はローマ時代の著述家タキトゥス(55?~120?年)の著「ゲルマーニア」であるという。その記述によれば、バルト海東岸には「アエスティー族」が住み、母神を信仰し、農耕と漁業をなりわいとし、海中から琥珀を拾ってくる、とある。ただしアエスティーの言語は「ゲルマーニアのそれに近い」とも述べられているので、これはバルト系民族にゲルマン人が混在していたもので、今のエストニア人はその後(タキトゥスの時代の頃か)現在のエストニアに移住して来て、先住者の名前(「東」という意味がある)だけを受け継いだ、という説が強い。
 その後のエストニアについてはほとんど記録が無い。9世紀以降、ヨーロッパ中の海に乗り出したヴァイキングはフィンランド湾から上陸してロシアに入りこんでいるが、バルト海沿岸の森林地帯に領土的野心は無かったものと見える。

 エストニアが歴史に登場するのは、ヴァイキングの末裔であるデンマークが1218年にレヴァル市(現エストニアの首都タリン)を建設した頃である。デンマークのヴァルデマー2世は一時的にバルト海から北海(ノルウェー)に至る沿岸地域を征服したが、1227年にドイツ諸侯に敗北して捕虜となった。これを境にバルト海の制海権はドイツ人の手に移り、北ドイツのハンザ同盟に属する200以上の都市によりバルト海交易が活発化する。
 13世紀当時、人口が増加していたドイツ人は、バルト海沿岸に入植して多くの都市を建設した。その中心となったのがドイツ騎士団で、1346年にはデンマークからエストニアを奪った。彼らは自分たちを「北方への十字軍」と規定し、原住民にキリスト教への改宗を迫った。エストニア人の抵抗は鎮圧され、エストニア人はキリスト教に改宗した。エストニア人の居住地は「リヴォニア」(リーフラント)と呼ばれた(現在リヴォニア北部はエストニア、南部はラトヴィアに属する)。このドイツ騎士団の支配は200年続いた。
 バルト海沿岸の絶好の位置であるリヴォニアを巡っては、南のポーランド、バルト海の対岸にあるスウェーデンとデンマーク、そして16世紀にモンゴルの支配を脱して急速に勃興したロシアが争奪を始めた。1558年にロシアの侵攻によって始まったリヴォニア戦争の最中の1561年、スウェーデンはエストニア(現在のエストニア領北部にあたる)を占領した。1582年に休戦となったが、スウェーデンはエストニアの支配を認められた。
 スウェーデンは1621年にはリヴォニア全土を占領し、フィンランドからポメラニア(ドイツのバルト海沿岸部)に至る広大な領土を獲得、バルト海での覇権を樹立した。プロテスタント(新教)国であったスウェーデンの影響で、エストニアでも新教徒が優勢となった。

 ロシアは大帝と呼ばれたピョートル1世の治世に近代化を図り、1700年にスウェーデンと北方戦争を始める。緒戦こそスウェーデン軍はエストニアのナルヴァで5倍のロシア軍を撃破したが、ポーランドを転戦するうちに疲弊してついにポルタヴァでロシア軍に敗れ(1709年)、1721年にロシアと講和、エストニアを含むバルト海沿岸部をロシアに割譲した。既に1703年に新都サンクト・ペテルブルクの建設に着手していたロシアは北海への出口を得て国威を伸張させた。
 エストニア人は自治権を与えられていたが、1881年にロシア皇帝となったアレクサンデル3世は殖産興業と共に帝国のロシア化政策を開始、支配下の諸民族の民族運動を弾圧した。学校での授業は全てロシア語とし、タリン市内にはロシア正教の寺院が建設された。1905年、日露戦争による社会不安から第一次ロシア革命が起きるが、エストニアでも激しい暴動が起きた。1906年にはエストニアで社会民主党が結党されている。
 第一次世界大戦中の1917年に2月革命が起きると、新政府はエストニア人に国民議会の結成を許可、同年10月革命が起きるとエストニアは独立を目指した。1918年にはロシア革命の混乱に乗じたドイツ軍はエストニアを占領、ドイツ軍占領下の2月24日、エストニアは独立を宣言した。
 エストニアはドイツ軍、ロシアの反革命軍、そして10月革命で誕生したソヴィエト政府のボルシェヴィキ軍の争奪の場となった。エストニア軍は1919年にバルト・ドイツ軍(ランデスヴェア)を撃退、イギリスやフィンランド義勇軍の援助も得てボルシェヴィキ軍も撃退し、1920年にソ連によって独立が承認された。
 初代大統領には独立運動を率いたコンスタンティン・ペーツが就任したが、ドイツ系貴族の土地を没収する急進的な土地改革を行うと同時に、国内の共産主義者の革命運動を抑圧した。1934年には大統領自らクーデタを起こし議会を停止、ファシズムに倣った改革運動を行った。
 しかしそのファシズムの巨魁であるドイツの総統ヒトラーは、第二次世界大戦直前の1939年にソ連と独ソ不可侵条約を締結、密約でソ連のバルト三国支配を黙認した。ソ連のスターリン政権はバルト三国に圧力をかけてソ連軍の進駐を認めさせ、1940年6月にはソ連の意を受けた勢力によるクーデタが発生、新政府はソ連への加盟を「懇願」し、1940年8月、エストニアはソ連の15番目の社会主義共和国として併合された。
 1941年6月にドイツ軍はソ連に侵攻、エストニアは1944年までドイツ軍の占領下に置かれる。ドイツの占領下でエストニア政府が復活したが、ドイツは敗退、ソ連軍が戻ってきた。エストニア人はフィンランド義勇兵と共に対ソ闘争を行ったが鎮圧され、政府は国外逃亡、6万人のエストニア人が西側に逃れた。一方ソ連は4万人のエストニア人をシベリアに強制移住させている(1953年のスターリンの死に際して帰国を許された)。スターリン政権下で逮捕・流刑された人は9万5千人に及ぶという推計もある。

 1985年に登場したソ連のゴルバチョフ政権は改革を行い行き詰まったソ連の立て直しを図ったが、民族運動はソ連の死命に関わるので認めようとはしなかった。1987年8月、独ソ不可侵条約の記念日にデモが発生、さらに1988年には音楽祭をきっかけに大規模なデモが発生し、「歌う革命」と呼ばれた。
 1988年11月にはエストニア・ソヴィエト最高会議による主権回復宣言がなされ、1990年の選挙では独立推進派が圧勝、3月には独立宣言を行った。同時に、エストニア人口の30%を占めるロシア系住民と独立派との対立が始まった。
 1991年8月、ソ連共産党保守派のゴルバチョフ政権に対するクーデタは失敗に終わったが、この騒ぎに際してエストニアは各国の承認を受け、9月にはソ連の承認も得て独立を達成した。この際ロシア系住民はエストニア国籍の取得を拒否して問題になった。
 1992年には自由選挙が行われ、レンナート・メリが初代大統領に就任、2003年には独立当時のエストニア・ソヴィエト最高会議議長だったアルノルド・リューテルが大統領に選出された。1993年には駐留ロシア軍が撤退を完了、今年3月にはNATO加盟、5月にはEU加盟を達成した。

 エストニアはソ連からの独立後、1000%というハイパーインフレに見舞われたが、民族的に近いフィンランドとの関係を急速に増大させ経済改革を推進、フィンランドは現在は最大貿易相手国となっており、またドイツ、スウェーデンとの関係も拡大している。一人あたりGNPは4837ドルとバルト三国及び旧ソ連内では最高の水準にあるが、10%という高失業率が問題になっている。
 ラトヴィア同様、住民の3割を占めるロシア系住民の扱いが大きな問題となり、ロシア系住民にエストニア国籍取得に際してエストニア語や憲法試験を課し、ロシアから「人権侵害」と非難された。EUなどの勧告によりロシア系住民の社会統合を目指す政策に転換しているが、EU加盟の際にロシア系住民が反対デモを行うなど、対ロシア関係の潜在的問題となっている。


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